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鶴見辰吾の両親の先祖が名家!徳川家との繋がりや大事件の当事者も!

鶴見辰吾の両親の先祖が名家!大名陥落した事件って一体何?

鶴見辰吾の父方と母方の先祖がどちらも江戸時代に名家だったことが知られ注目されています。

今回は、鶴見辰吾の両親の先祖について迫っていきます。



鶴見辰吾の父方先祖は、松本城主の水野家

鶴見辰吾の父方先祖は、松本城主の水野家

鶴見辰吾の父方の先祖は、長野の松本城主・水野家の家臣でした。

水野家は近世大名家を輩出した名門で、江戸時代の中期から後期にかけて幕府の老中を輩出し続けていました。

享保の改革や天保の改革など、歴史の教科書で習うような江戸幕府の一大事業を主導していました。

鶴見辰吾の父方先祖は、松本城主の水野家

しかし、1725年(享保10年)に水野忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしたため、水野家は改易つまり平民に身分格下げの処分となってしまいます。

その後叔父の水野忠穀に家名存続のみが許されましたが、その子の水野忠友が家治の側近として活躍し、1768年(明和5年)三河大浜(現在の愛知県)にて大名に復帰しその後駿河沼津藩主となります。

水野家のお家お取り潰しの中、鶴見辰吾の父方の先祖は家臣としてピンチを脱したと言われています。

身分の低い武士となった水野家は家臣を減らさざるを得ず、残る家臣を選ぶ必要がありました。

その際に、名前の書かれた紙を上から落とし、地面にある輪っかに入った名前の家臣だけ残すというくじ引きのような方法がとられました。

そして鶴見家は家臣に残ることができたそうで、強運の持ち主だったようです。

その後大名に復帰した水野忠友の家臣として復活します。




鶴見辰吾の母方先祖は岡崎城主の本多家

鶴見辰吾の母方先祖は岡崎城主の本多家

鶴見辰吾の母方の先祖は、三河・岡崎城主につながる家柄と言われています。

江戸時代の中期から後期にかけて、岡崎城主を務めていたのは本多家でした。

岡崎は徳川家康生誕の地で、江戸時代にも徳川家と親交が深い譜代大名が岡崎を治めていました。

本多家の多くも徳川家と縁が深かったようです。

しかし明治になると廃藩置県によって岡崎藩主を追われ、静岡へと向かいます。

明治新政府ができると、徳川について大名たちは今の静岡に集められることになりました。

鶴見辰吾の父方母方の先祖が過去すれ違っていた?

鶴見辰吾の両親の先祖が名家!大名陥落した事件って一体何?

鶴見辰吾の父方の先祖は愛知・三河でお家復活を果たし、母方は三河・岡崎城主につながる家柄でした。

鶴見辰吾の父方と母方の先祖は江戸時代後期に愛知・三河、そして静岡・沼津ですれ違っていたことがわかりますね。

鶴見辰吾自身東京出身ですが、父母ともに運命的に出会ったのでしょうか。